四行倉庫 抗戦記念館 1937年10月26日から11月1日にかけて起きた四行倉庫の戦い 第二次上海事変の最後の戦闘が行われた場所である。
四行倉庫抗日記念地 上海市内の倉庫で両軍決死の戦いが続いた肉弾戦 記念地として整備されたのは戦後70年 上海事変・ウースン上陸作戦・淞滬會戰78周年記念の年上海戦跡巡り 四行倉庫の最後 当時の租界に住む・在留邦人向けの絵葉書外壁に残っていた銃弾の跡をモチーフに 時代を跨ぎ当時へ戻した・・他の戦跡で類を見ない貴重な場所である。四行倉庫は上海共同租界の蘇州河対岸に位置する 戦火に燃える閘北地区から日本軍が迫る。倉庫に立てこもり 日本軍を迎え撃つのは国民党八十八軍の八百壮士と言われた精鋭部隊、実際は上海北駅の戦闘で消耗し兵力は二百五十人程度だったといわれている。
月浦鎮 廟行鎮 大場鎮 勢いあまる日本軍に陣地を次々占領される。苦戦が続く閘北地区から 中国全軍を撤退移動させるために蒋介石は四行倉庫で日本軍を足止めし時間を稼ぐ作戦を命令した。指揮を執るのは 若き謝晋元 広東省梅州出身 幼き頃起きた辛亥革命に影響を受けた革命に燃える心優しき勤勉な青年だった。孫文を尊敬し三民主義思想を唱え、国に奉仕することを使命とし帝国主義に強く反発 自ら志願した。四行倉庫を堅守せよ!死守せよ!四行倉庫はコンクリート製6階建てのビル 四行は四つの銀行という意味。倉庫に土嚢を固め陣地を構える。頑固な構造と複雑な陣地は緻密 進入してきた日本兵は標的なり、おおいは苦しめられました。孤立奮闘し勇敢に戦う88軍の姿に上海の居留民たちは感動し、軍事物資や食料品や日用品と共に心のこもった手紙を届けました。また上海商工会から激励の青天白日旗が運び込まれました。応援にこたえるため88軍は対岸に見えるように四行倉庫の屋上に青天白日旗を掲げた。数万人の民衆が蘇州河のほとりに集まり「中華民国万歳」と叫んだ。怒りに火のついた日本軍は猛烈な総攻撃をかけた。後方の閘北 周辺の野戦基地は火の海につつまれた。欧米との衝突を是が非でも避けたかった日本軍は 蘇州河の対面の共同租界に流れ弾が着弾しないように 格段の注意を払いながらも激しい攻撃をつづけた。火砲や爆弾が炸裂、軽装甲車が後方支援した。生死をかけた戦い両軍に負傷者が続出した。 倉庫に医療品を完備していたが 謝晋元は手当の必要な重傷者を深夜に蘇州河の小舟で運び出し商工会を通しイギリス将校に手当を依頼している。兵を思いやる将軍だった。※四行倉庫から蘇州河の向こう旧共同租界をみる・・如何に近かったかわかる・・共同租界の外国人住民は至近距離での戦闘に危機感が増していた。中国軍に人道的な観点で停戦を要求した。蒋介石は西側の注目と協力のもと一定の成果は築けたとし 10月31日に守備隊に対して撤退命令をだして停戦に応じた。大本営は勝利宣言をし 事実上第二次上海事変最後の戦いは日本軍の勝利に終わった。当日の号外『皇軍 四行倉庫を占領 閘北の敵完全に掃討』が配られ日本人租界は万歳三唱で沸き立った。被害は中国側戦死10名 負傷者37名 日本側は海軍陸戦隊と陸軍合わせて戦死者200名以上 尊い犠牲のもとの勝利だった・・
毛沢東も一筆を添え称える 勇敢な指導者・中華民国国民革命軍の謝晋元
・・私が初めて謝晋元さんに会ったのは2012年 段ボールに囲まれていました。
四行倉庫はただの普通の倉庫だった 此処が戦場とはだれも意識していませんでした。超大作映画「八佰」が中国で上映 大ヒットを記念して
・・生まれ変わった四行倉庫に行ってみませんか・・
上海事変の調査 日本にいても続けています。
クリーク沿いに進軍した日本軍の足跡を辿り トーチカで陣地を構えていた中国軍と交戦の場所 百度地図で追っていくと必ず見つかる。この場所には次回の上海訪問で!