秘境・上海情報 

上海の歴史 旧日本人街 租界巡り

ブログ 一時休止のお知らせ

上海を長らく離れることになりました。

皆さまに応援して頂き、楽しく街歩き 

租界巡りができました。感謝致します。

懐かしい 思い出がいっぱい日本人街

あの時も 後にピアスアパートがみえた

町内の集会や冠婚葬祭が行われていた 

当時が偲ぶ日蓮宗本圀寺 1922年築
築地本願寺を模した西本願寺別院は

在留邦人の拠り所だった 寺内の様子

租界址に住む人々と ふれ合いが嬉しい日々でした。おじさんブルース

感謝朋友 好好朋友 お別れは辛いけど必ず戻ってくるからね!

当時 日本人が住んでいたお家に たくさんおじゃましました。

いまも ~窓から燦燦と陽ざしが差し込んでいます。

『クリークにかかる橋の手前 から、流れに沿って建つ第四国民学校の校
舎の裏がみえるはずである。』 校舎は人民病院病棟へ 林京子の足跡

まち そのものが 歴史を語りつづける

再見愛しの上海 また会う日まで!

祝健康 長寿 

おじいちゃん おばあちゃんお元気で!  

不定期になりますが ブログにて 近況報告していこうと思います。

魯迅と共に

三十年代上海 波乱に満ちながらも人々を魅了しつづける

当時上海は列強が置いた治外法権の華やかなりし租界 不平等が台頭し
善悪 貧富が渦巻き、ゼネストや権力に対する武装蜂起も続いていた

激動の予感 不穏な空気が漂う1927年・・
10月3日 魯迅許広平夫婦が国民党弾圧を逃れ上海に辿り着きました

魯迅夫婦は到着後、愛多亜路長耕里の共和旅館に宿泊したあとの 
10月8日に虹口横浜路の景雲里に移り住居を定める。蒋介石が率いる
国民革命軍による左翼系取り締まりが日増しに激しくなっていました。
 
華界と租界の境に位置し租界警察の管理が手薄になっていた地域 周建人
葉聖陶 芽盾、柔石など左翼文化人が密かにこの建物に住み、執筆活動
革命家達のアジトとなる 以後2年7ヵ月間 魯迅夫婦はここで生活をする

景雲里は現存 集合住宅になっています。当時景雲里の建物は迷路の如く 

同年4月12日 蒋介石が反共クーデターを起こし左翼の弾圧を開始する
上海クーデター/四・一二事件 )宝山路ではデモ隊にむかって発砲、
多くの犠牲者がでる(下・現宝山路)4月18日南京に国民政府を設立

その後9月29日に 蒋介石は長崎から日本に入国。宋美齢との結婚を承諾
してもらうため有馬温泉で療養している美齢の母・倪桂珍に会いに行き
結婚の了解を得る。その後東京へ向かい当時の首相・田中と会談した
蒋介石は留学など生涯で6回来日・・だがこれが最後の日本訪問となった

1927年12月1日 結婚了解を得た蒋介石宋美齢は 美齢の父が牧師を
している虹口昆山路の景林堂で結婚式をあげた 昆山路135号教会が現存 

・・魯迅が魏盛里の内山書店を訪れ内山完治と出会ったのも この年
1927年である。ふたりは深い友情で結ばれました。弾圧吹き荒れる中、
魯迅の生涯において内山夫婦は 魯迅の陰日なたになり寄り添いました

魯迅は迫害を恐れ日本人街で住居を転々としながらも書店に通いつめ
雑談を交わすことが迫る危機、緊張する日々の中で最大の楽しみでした。
完造は魯迅専用の椅子を用意してくれた。多くの日本の文化人も訪れ
魯迅に会い、中国文学者との交流の場ともなった。1929年に魏盛里から
移転した内山書店旧址は今も現存 足跡が記念プレートに 四川北路2048

大阪朝日新聞社記者の尾崎秀実 ジャーナリストの山上正義も内山書店の
常連だった 山上は魯迅と交流を持ち早期に小説「阿Q正伝」を和訳した 
尾崎は訳本を日本に紹介 魯迅は尾崎を才能溢れた知識人と評価している

尾崎秀実は言わずと知れたゾルゲ事件の首謀者のひとり
花園里にその尾崎が滞在していた、二棟先の興業坊に吉行エイスケ
滞在していたことも 李香蘭が終戦直後に一時収容された場所でもある

東照里 1933年築 国際ジャーナリスト松本重治が住んでいた。住民の大半
日本人が占める中、瞿秋白魯迅、内山完造の口添えで東照里に隠れ住む

その対面 山陰路をはさんで大陸新邨 魯迅故居がある 内山書店名義で
転居し生前まで住んでいた。完造との出会いがあったからこそ 
魯迅はここで過ごし、ここで生涯を終えることになった 大陸新邨のいま 

山陰路・旧スコットロード(Scott Road)の日本人が住む高級住宅地に  
中国左翼文化人が隠れ住む、歴史的にも類を見ない特異な場所であった。
みちを歩くと この街に住んでいた日本人の思い出の場所にたどり着く

当時を知る人とお話しすると 虹口の新公園の思い出がよくでてきます。
その公園は魯迅公園と改称され魯迅の墓、記念館が・・魯迅此処に眠る

魯迅と共に・・当時に想いを馳せるみち、歩いてみました。

  
 ・・紅葉さん お母様のお住まいを探してみました・・ 

旧・日本海軍陸戦隊 その建物の裏手に 

当時が偲ばれる 鉄門があるりっぱな屋敷群があります。
3階建てのお家もありました。洗濯物から〜多くの人が住んでいるよう

この住宅街は 当時も 今も敏徳坊といいます。(百度地図より)

日本人高級住宅のほか、一角に鈴木洋行の社宅もあったそうです。

お母様のご記憶どおり 門をでると路面電車の天通庵駅がありました。

ブルース女王が泊った 大和ホテル 

ありし日の上海 華やかなりし頃 有名ゲストが滞在したといわれる
旧大和ホテル 築1928年 現建物名は太安里 四川北路駅裏・衡水路
 
日本人街だったホンキュウ(虹口)の旅館街に一際 美しい洋館ホテル
淡谷のり子 岡晴夫 渡辺はま子 服部良一など錚々たる大物が訪れた 

戦後は一時集合住宅になり、近年は作業員宿舎になっていました

あっ!大和ホテルに 土台がついた 

保留建築物として後世に残すために 建物ごと移動するんだって!

ここから・・

ここまで・・

あ・・本当に動いたんだ!! 

虹口街道HK計画に組みまれた 歴史ある大和ホテルは第二のステージへ

※余談ですが 淡谷のり子さんは海軍の依頼で慰問コンサートを開いた 
当時禁止されていたパーマをかけドレスに身を包み 発売禁止だった
別れのブルースを兵士のリクエストにより歌った。誰よりも気高い
彼女は洋館が気に入り泊っていた。バルコニーで煙草をふかしながら
華やかなホンキュウのまちを眺め・・ブルース女王がここにいたんだ

四川路 海寧路交 日系東和洋行の旅館が入っていたビルが現存する
四川北路のランドタワー 中信広場 その周辺の一角の建物を一掃し
大掛かりな工事が始まるようだ。またデカイものができるんだろう

終焉 撤去されるお家には拆除の拆の字がペンキで書かれる

最近 老朽化や 開発の波で解体される租界のお家が増えていますが
取り壊し工事にストップが掛かった 日本人に縁の深い建物があります。

美しい煉瓦造り麦豊里 マグノリア・テラス。マグノリア木蓮の意味 

当時左翼文化活動の中心 創造社出版部が41号室に置かれたが
国民党の弾圧で閉鎖された。金子光晴のどくろ杯に経緯が書かれている
戦争中は殆んど日本人の住まいになる(歴史ガイドブックより抜粋)
戦後から、ついこの間まで集合住宅として多くの住民が住んでいました
立退き、住民のいなくなったマグノリアの新たな息吹はいつでしょう。

マグノリア隣も集合住宅 赤煉瓦造り赫林里ヘレン・テラスです。
ここも日本人が住んでいました。軍人、軍関係者の人も多く 
玄関前に馬を繋ぐためのコンクリートの馬杭が残っています。
軍馬は共に戦う神馬と呼ばれ大切に家族同様に扱われていました。

四川北路をはさみ、旧福民医院がある。当時は日本人医師が勤務し
今から90年前の1929年 魯迅の妻・許広平はここで長男を出産

今回の散策も いまとむかし あの頃の生活が 感じとれました。

久しぶり〜以前 訪ねた租界のお家のひとだ!覚えていてくれたんだ
顔見知りがいっぱい〜やっぱり上海はいいなぁ、虹口はいいなぁ、

次回は 彼が住む この小区を訪ねてみようかな〜。

      ・・・日本人租界巡り つづきます!・・・

明けまして 天辣で成都牛肉麺

祝・猪年! 明けましておめでとうございます!

中国では猪というとぶたさんのこと ぶたさん年なんですよ

猪突猛進!勢いよく租界巡りのスタートです!

お久しぶり! 旧租界地区に住むみなさん 

あの日 だれかが住んでた日本人街へ

混沌とした時代の片隅で 夢を語り
 
四川北路には日中の文学者が集った旧内山書店が 今も佇んでいます

魔都のシンボル ブロードウェイマンションが見えた 

ああここは上海  帰ってきたんだ!

・・・腹が減っては 租界は廻れずということで・・・

天辣小館のピリッと辛い本場四川省成都牛肉麺を紹介します。

どこにでもあるチェーン店 高島屋地下 アピタにも出店しています

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