日本人租界と称された虹口
真ん中を流れるクリーク、周辺を散策しました
林京子の小説にも度々、上海で過ごした頃の思い出とクリークが
重なるように描かれています。※現在 防波堤、河川工事中
『どの家もガラス窓を閉めて、静まっている。クリークの向こう岸にある
屠場で、屠蓄が行われているからだ。吹いてくる風に、動物の肌の
あたたかさがある。』クリーク横道を牛がひかれていったそうです。
旧工部局宰牲場 1933年 当時 上海は東洋一の建物や施設が
たくさんありました。そのひとつが殺牛公司と呼ばれていた屠殺場です。
異彩を放つ建物、迷路のような廊下 牛が歩いた道は
1933老場坊 オフィス、アート&レストラン街になっています。片隅に
日本軍が築いたトーチカが数基残っていました。事変停戦後、
屠場は日本軍の管理下に置かれたが 後も戦闘が続きました。
大阪朝日上海支局 1932年 大陸新報社本社 1939年 日本の国策新聞
陸軍、海軍、 外務三省と興亜院の後援で設立 長治路(旧・東煕華徳路)
※大阪朝日は 赫司克而路にあった支局(1928年-1932年)が戦火で焼け、
長治路へ移る。その際一時 満歳館の一室を借り上げて凌ぎました。
そこで執筆していたのは 帰国前の あの尾崎秀実だったそうです。
満歳館は芥川龍之介や佐藤春夫も泊まった当時の一流旅館 閔行路181号
同仁病院 結核が猛威をふるい患者さんで溢れていました。
クリーク上流の戦地などから多くの負傷兵も運ばれました。
現在集合住宅 片隅に病院で使われたらしき家具が残っています。
検問所が置かれた南潯路 日本人居住区では テロに備え、
要所々で検問が行われていた。
あの時代 クリーク、人々の暮らしは 暗黒と紙一重だった。
今はなんて 穏やかなんでしょう
辺周辺は 北外灘開発の一角で街並みを補修し保存されます。
老房子を塗装をする作業の人は 江蘇省から来たそうです。
ご夫婦で息もぴったり 笑顔が素敵でした。
田舎の人が いまの上海を支えているんですね!