秘境・上海情報 

上海の歴史、租界 戦跡巡り 只今日本に滞在中

 上海はそんなに遠くない

『上海はそんなに遠くない・・国民学校五、六年生の副読本に掲載されて
いた、詩の一節である。終戦の年、十四歳だった私が五十を過ぎている』

戦後三十六年 上海行きのツアーに参加した『とうとう来た、外は上海だ』
鮮烈の記憶をたどった小説 上海 ミッシェルの口紅より

『黄浦江は変わっていなかった、岸辺の隅々も街並みも生臭い風の匂いも
子供のころと変わりなかった。・・ガーデンブリッチを渡ってみないか』

『私たちはブロードウェイマンションの前に立った 二十四階立てなのと
いって建物のてっぺんを仰ぎみた。』 ブロードウェイマンションを
ブロマンと縮めて呼ぶ、粋ないい方も「私」は知っている・・

・・昭和6年から20年春まで居留した上海へ36年ぶりに再訪した・・
  更に36年が過ぎ、今年2月19日に林京子さんは永眠されました。

1930年に長崎で誕生 父の仕事の関係で満一歳の誕生日を迎えないうちに
上海に渡り、住民の九割が中国人という虹口の密勒路(峨眉路)に住んだ

『労働者と、ほんのひとつまみの大金持ちと中産階級のものが住む、
この街を介して、私は中国人の生活を知り、感情を知ったように思う』

日本人街だった呉淞路『味噌汁の香りと下駄音がしみついていた街だった』

『バスは呉淞路を通り、三角市場・虹口マーケットの前にきていた。
私はカメラを構えた 母のために是非写して帰りたい・・ほとんど毎日
買い物で出かけていたマーケットである 母の生活記念塔である』

虹口マーケットは当時、東洋一の規模といわれた。豊富な品揃えは
内地から来た日本人の目を見張らせるものだった(歴史ガイドブックより)
「私」が目にした市場は 90年代半ばに取り壊され銀行になっている

『この虹口クリークに沿った道は母に内緒にしている帰り道である・・
向こう岸には上海事変で爆撃を受けて崩壊した家屋が放置されている』

『クリークにかかる橋の手前 から、流れに沿って建つ第四国民学校の校
舎の裏がみえるはずである。』

中部日本人小学校 第四国民学校の校舎は 上海第一人民病院の急診
救急病棟に姿を変えた 武進路(旧・老靶子路)86号 

『それでも 路地の風景と時々の記憶が鮮明に、確かな手ごたえとして
胸に迫りました』36年間の空白にふれた五日間の短い旅を終えた

 あれから、時が過ぎ・・街の記憶はスクリーンの中へ・・

ありがとう 「私」が生きた街のひとたち

上海はそんなに遠くない ・・わたしたちの心も遠くない 

 『上海の、あの少し脂っぽく重い、色にたとえるなら花粉色をした空気が
 胸へ染みわたっていった瞬間 ただいま!と心の中で叫んでいました。』
                  ・・ご冥福をお祈り致します。