秘境・上海情報 

上海の歴史、租界 戦跡巡り 只今日本に滞在中

ありがとう白石六三郎さん

六三花園で撮られた一枚の写真 詳細等は不明
中央の中国人を主賓にした集まりなのか 華やかな席のようです。
(詳細がわかる方がおりましたら ご一報ください)

後列左端に写るのが創立者 白石六三郎氏 長崎県出身です。 
1898年に蕎麦屋・六三庵(現・塘沽路)を開店し 1900年には 
高級日本料亭・六三亭(建物は今も現存)を開き大繁盛 後には

六三花園 1908年 現・西江湾路に六千坪という土地を購入 数年をかけて
純日本庭園を備えた料亭を完成させ、1912年に敷地内に諏訪神社を設立
のちに滬上神社として改称 四季折々の行事が行われた。広い芝生は
日本人居留民に無料開放 憩いの場として日本文化のシンボルとなった

日中友好の架け橋として 中国人にも門を閉ざさなかった 
白石の後押しもあり 才能を世間に知らしめたのは

呉昌碩 清末近代の天才 文人画家 1914年に生存中、唯一の個展が
六三花園で開催された。日本人だけではなく中国人の文化人も
自由に入れるように開放した。それが功を奏してか大盛況だった

呉昌碩故居 山西北路吉慶里 (現在は小区)
個展という宣伝効果は絶大だった 共同租界の中にあった呉昌碩の
画廊兼住居には書を買い求める日本人が列を作っていたといわれる 

彼が晩年を過ごした住居は いまは民家となっていました。

呉昌碩と王一亭 琴を奏でるのは叶というお気に入りの妓女 
中風が悪化しても 死の直前まで六三園に通い叶が弾く琴に酔いしれた

呉昌碩 1927年没 83歳  告別式で日本人として最初に
名を呼ばれたのが白石六三郎だった。三周忌の追悼会は
彼が愛した六三花園で 日中の友人が集まり行われた。

1912年4月6日 宮崎寅蔵の歓迎会 孫文も出席して六三亭で行われた
宮崎は孫文を支援し 辛亥革命を支えた革命家である
1911年辛亥革命勃発〜1912年(清が打倒され中華民国が誕生)

内山完造と魯迅、野口 米次郎 著名人が集まり 時代を語り、
動かし、先導した場所でもある 芸術を愛し、自由、平等を願い 
日中友好を育む場として 白石六三郎が造った美しき六三花園
  ・・あの 戦争が勃発するまで・・

六三花園は 日中戦争の戦火に焼失し 跡形も無いが 
魯迅公園の横 南西に伸びる花園路は その名にちなむ
あの時の白石の想いが 脈々と繋がっている

小区の住民の方 色々教えてくれてありがとうございました。
日本文化を愛し 中国文化を尊ぶ 友好は今も此処に・・感謝。

※呉昌碩と白石六三郎・近代日中文化交流の一側面、
 上海的日本文化地図、中山市档安・孫中山文献、
 百度百科を参照、抜粋した部分がありますのでご承知ください。