秘境・上海情報 

上海の歴史、租界 戦跡巡り 只今日本に滞在中

黄河の分岐 廃黄河へ 

内陸は 夜もあまり気温が下がらず、朝から気温がグングン上がり 
早朝にも関わらず、もう道路に水撒きがされていました。

これから向かう目的地 ・・開封から蘭考県挟河灘村です・・
地図上 くねくねした流れは 暴れ龍と恐れられた黄河です。

この一帯は 黄河の氾濫で 歴代もっとも被害があった地域 
土地は荒廃し貧困地帯でしたが、水利が改善 高速鉄道が開通しました

中国で三番目に人口が多い河南省 水陸両方で交易が盛んになりました

不忘初心 牢記使命  使命を心に刻み、初心を忘れないのスローガン 
習近平政権が貧困対策 経済支援に取り組んでいる地域だそうです。

美しい故郷 模範村 共産党旗がはいった村名の赤い立て看板、付近の
村々にも掲げられていました、共産党の力の入れようがわかります。

此処から主要道路からはずれ 田舎道を走ります。

蘭考県三義寨へ 黄河の辺では古代から多くの文明が生まれました。
所謂、黄河文明です。その歴史は古代から 村は春秋時代には交通の
要所となり 偉大なる黄河の歴史に名を連ねた村です。

三義寨は 村を流れる黄河に翻弄されつづけました。その黄河
流れを変えられ廃黄河になり農業の用水路になっていました。

黄河 廃止された黄河という意味 青海省の山脈を源を発する
黄河は大屈曲しながら省を跨ぎ 平原である河南省で氾濫を繰り返す。
人的、意図的にも黄河は何度も姿を変えている。その古い流れを
道に例え 中国では廃黄河を、古黄河黄河故道ともいう

蘭考県挟河灘村へ 黄河が本流から廃黄河と分岐した場所です。
その河口を村人に尋ね教えてもらう

黄河 此処から本流と分岐しました。
黄河本流の改道 公元前602年至1938年まで じつに26回行ったと
伝えられる。この挟河灘河口は大規模的には宋 金朝1232年 明 清の 
四回、土壌、石を積み上げ 火薬 近年は空爆で堰きとめ流れを変えた

黄河はここから商丘、徐州、宿遷をとおり 淮安で 黄海に流れ着く
これが 古来の黄河の道である ・・・

黄河の本流はここから北東に方向を転じ 山東から渤海へと注ぐ

黄河で釣りをしている村人がいました 可愛い魚が釣れてた!

引黄閘 近年 廃黄河の水を利用した水門が完成していた

一時は農業ができない程 不毛の土地と言われた蘭考県 

汚泥に塗れた、塩分集積地だったが 水利を制し農地利用化に成功した

これぞ中原 肥沃の大地 黄河下流域 中華文化の発祥地である

めぇー 羊の毛を刈っていました。冬用のお布団を作るんだって 

わぁモコモコして暖かそう〜

ぽかぽかの布団で 中原の厳しい冬に耐えられるね!

次回は 近代史の惨状 歴史の黄河へ 
       

みんなの城壁 夜市はいいな

宋代に三重の城壁で囲まれていた開封 今ある城壁は清代に再現したもの

鼓楼 中国最古の鼓楼といわれていますが 観光開発のために再現した
造りが 西安の鐘楼を模したように感じました。まち全体が
宋文化の再現に力を入れた、エンターテインメントが盛んです。

相国寺 遣唐使空海長安西安)へ黄河途上するさいに寺に立ち
寄ったと言い伝えがある。ここから陸路で洛陽を通り唐の都を目指した

中国でもっとも古い都市にひとつですが 悠久の歴史は過酷で
度重なる黄河氾濫 洪水で都市諸共流され、土砂の下に埋もれました。
地下に六期の城が埋まっていると言われています。

まちを歩くと 途切れた 古びた城壁を見かけます。

宋門関南街 私が滞在していたまち 順河回族区にあります。
宋代の門があったが 新中国になって撤去され城壁だけが残る

城壁の周りには 屋台が出て賑わっています。

みんなが飲んでいる 暑い日に水分補給は欠かせない石榴ジュース 
美容にも効果があり、女性にも一番人気です。

端午節が近かったせいか棗の粽も売られていました。
ここはイスラム街なので 清真 ハラールのマークがついていました。

ホテルの周りは 夜になると屋台が出て 夜市になります。

みんなが食べている 魚や麺がはいった鍋 凄く辛いそうです。
ビールを飲みながら食べるのが開封流  魚鍋は屋台の一番人気です。

具材は黄河の川魚のようです。海から遠い内陸で貴重な蛋白源ですね。

本場 イスラム街の麺 手さばきも鮮やか

私はいつもさくっと蘭州牛肉麺を食べていました。値段は10元 安い!
夜市はいいな、地元の人の生活が垣間見れ、ふれ合えて!

開封市灌湯包 ・・開封名物 大きな小龍包、スープがタフタフ〜

たまには少し贅沢 ルームサービスで注文しました 

配達サービス料も含め 蒸篭2段 35元でした。
・・運んでくれた人の 笑顔で 美味しさも増しました!

南教経胡同 ユダヤ人街と天主堂

南教経胡同 開封ユダヤ人街
北宋時代、今から1000年以上前 ユダヤ人が宗教迫害を逃れるために
ヨーロッパから中央アジアシルクロードを通り、世界一の都だった
開封にやってきました。当時の皇帝から許可を経て定住した場所です。

ユダヤ人たちは 独自のコミニティを築きながら地域に根付きました。
のちに自分達で資金を調達してシナゴーグ建設しました。
シナゴーグユダヤ教会。開封ではイスラム風に「清真寺」とよばれた)
繁栄期には数千人を超える規模の共同体になっていましたが
度重なると黄河の氾濫で教会は何度も被災、破壊 とくに清の大洪水では
壊滅的な被害を受けました。※開封ユダヤ教の歴史を1489年に記した
シナゴーグの記録、重建清真寺記碑が開封博物館に保存されています。

長い年月が経ち 聖職者も殆んどいなくなり漢民族と同化が進みました
次第にユダヤ人としてのアイデンティティが 薄れていきました。
現在時点で、南教経胡同に残っているユダヤ人の末裔は僅だそうです。
歴史を語れる人が少なくなってきました。

南教経胡同は老朽化が進み、近郊の新興住宅地へ引越しする人が
多いそうです。地域全体のインフラ補修、改修工事がはじまりました。
ユダヤ民族を象徴するダビデの星 案内板は 今は外されています。

かれらが この胡同に戻るのかはわかりません。いま残っている人の
多くは古くからこの地に住むイスラム教徒たちです。また彼らも

遥か昔にアラブから渡ってきた祖先を持つ人が 少なくありません。

ちょうどラマダンの時期だったので 説教が書いてありました。

南教経胡同清真寺 ユダヤ人街の真中にある寺です。
有意義に楽しく過ごすラマダン 大らかな宗教観ですね。

胡同では犬がたくさん飼われていました。
イスラム教は犬は不浄とされていますが ここでは違います

犬が側溝に落ちた!すぐに助けにきてくれた男性 

彼もまたイスラム教徒 古来から南教経胡同には漢民族ユダヤ教徒
イスラム教徒が共存、偉大なる古都は異教徒、異文化に寛大でした。

胡同で会う人 やさしいお顔には 歩んだ歴史が刻まれています。

・・此処に 遥か彼方から中国にたどり着いた人達がいた・・
彫りの深いお顔に いにしえのルーツを感じました。

  河南省開封市にユダヤ人コミュニティがあったことを
   教えていただいた・・ブー太郎さん 行って来ました!


宗教が交差した 古都・開封
開封は 清真女寺(女性専用モスク)が世界で初めてできた場所です。

異文化を受け入れ 開放的で大らか 心の門を閉ざしません

天主教河南總修院大修院 創建1930年 キリスト教の施設 開封東郊外

開封でのキリスト教の歴史は明代に台湾から伝わり清代に大きく発展
宣教師は病に苦しむ信者のため医者の知識をもち治療しながら布教した

ここは宗教、医学の両方を勉強し 聖職者を育成する学校でした。
優秀なものは神父になり河南省キリスト教発展の礎になりました。

大きな中庭は 戦火や黄河決壊事件の時に難民が押し寄せました。
文革で廃校になり、沢山の命を守った庭は いまは畑になっていました。