秘境・上海情報 

上海の歴史 旧日本人街 租界巡り

魯迅と共に

三十年代上海 波乱に満ちながらも人々を魅了しつづける

当時上海は列強が置いた治外法権の華やかなりし租界 不平等が台頭し
善悪 貧富が渦巻き、ゼネストや権力に対する武装蜂起も続いていた

激動の予感 不穏な空気が漂う1927年・・
10月3日 魯迅許広平夫婦が国民党弾圧を逃れ上海に辿り着きました

魯迅夫婦は到着後、愛多亜路長耕里の共和旅館に宿泊したあとの 
10月8日に虹口横浜路の景雲里に移り住居を定める。蒋介石が率いる
国民革命軍による左翼系取り締まりが日増しに激しくなっていました。
 
華界と租界の境に位置し租界警察の管理が手薄になっていた地域 周建人
葉聖陶 芽盾、柔石など左翼文化人が密かにこの建物に住み、執筆活動
革命家達のアジトとなる 以後2年7ヵ月間 魯迅夫婦はここで生活をする

景雲里は現存 集合住宅になっています。当時景雲里の建物は迷路の如く 

同年4月12日 蒋介石が反共クーデターを起こし左翼の弾圧を開始する
上海クーデター/四・一二事件 )宝山路ではデモ隊にむかって発砲、
多くの犠牲者がでる(下・現宝山路)4月18日南京に国民政府を設立

その後9月29日に 蒋介石は長崎から日本に入国。宋美齢との結婚を承諾
してもらうため有馬温泉で療養している美齢の母・倪桂珍に会いに行き
結婚の了解を得る。その後東京へ向かい当時の首相・田中と会談した
蒋介石は留学など生涯で6回来日・・だがこれが最後の日本訪問となった

1927年12月1日 結婚了解を得た蒋介石宋美齢は 美齢の父が牧師を
している虹口昆山路の景林堂で結婚式をあげた 昆山路135号教会が現存 

・・魯迅が魏盛里の内山書店を訪れ内山完治と出会ったのも この年
1927年である。ふたりは深い友情で結ばれました。弾圧吹き荒れる中、
魯迅の生涯において内山夫婦は 魯迅の陰日なたになり寄り添いました

魯迅は迫害を恐れ日本人街で住居を転々としながらも書店に通いつめ
雑談を交わすことが迫る危機、緊張する日々の中で最大の楽しみでした。
完造は魯迅専用の椅子を用意してくれた。多くの日本の文化人も訪れ
魯迅に会い、中国文学者との交流の場ともなった。1929年に魏盛里から
移転した内山書店旧址は今も現存 足跡が記念プレートに 四川北路2048

大阪朝日新聞社記者の尾崎秀実 ジャーナリストの山上正義も内山書店の
常連だった 山上は魯迅と交流を持ち早期に小説「阿Q正伝」を和訳した 
尾崎は訳本を日本に紹介 魯迅は尾崎を才能溢れた知識人と評価している

尾崎秀実は言わずと知れたゾルゲ事件の首謀者のひとり
花園里にその尾崎が滞在していた、二棟先の興業坊に吉行エイスケ
滞在していたことも 李香蘭が終戦直後に一時収容された場所でもある

東照里 1933年築 国際ジャーナリスト松本重治が住んでいた。住民の大半
日本人が占める中、瞿秋白魯迅、内山完造の口添えで東照里に隠れ住む

その対面 山陰路をはさんで大陸新邨 魯迅故居がある 内山書店名義で
転居し生前まで住んでいた。完造との出会いがあったからこそ 
魯迅はここで過ごし、ここで生涯を終えることになった 大陸新邨のいま 

山陰路・旧スコットロード(Scott Road)の日本人が住む高級住宅地に  
中国左翼文化人が隠れ住む、歴史的にも類を見ない特異な場所であった。
みちを歩くと この街に住んでいた日本人の思い出の場所にたどり着く

当時を知る人とお話しすると 虹口の新公園の思い出がよくでてきます。
その公園は魯迅公園と改称され魯迅の墓、記念館が・・魯迅此処に眠る

魯迅と共に・・当時に想いを馳せるみち、歩いてみました。

  
 ・・紅葉さん お母様のお住まいを探してみました・・ 

旧・日本海軍陸戦隊 その建物の裏手に 

当時が偲ばれる 鉄門があるりっぱな屋敷群があります。
3階建てのお家もありました。洗濯物から〜多くの人が住んでいるよう

この住宅街は 当時も 今も敏徳坊といいます。(百度地図より)

日本人高級住宅のほか、一角に鈴木洋行の社宅もあったそうです。

お母様のご記憶どおり 門をでると路面電車の天通庵駅がありました。