秘境・上海情報 

上海の歴史、租界 戦跡巡り 只今日本に滞在中

華僑史の巨人 物語がはじまった。

華僑史に燦然と輝く巨人・その名は呉錦堂 裸一貫で身を起こし立身出世した男の中の男 明治天皇から勲六等瑞宝章紺綬褒章受章をうけた華僑最大の豪商である。その彼を一躍有名にした近世名勝負物語・黄金街の覇者(昭和29年の東宝映画 原作・村松梢風)鐘紡株を狙い相場師・鈴木久五郎に挑む関西黒幕の中国人 ・・その人物である・・f:id:ekobiiki888:20210207105632j:plain  彼はただの勝負師や商人ではない・・大規模な水害に見舞われていた故郷・浙江省寧波県慈溪県の惨状に心痛め、帰郷し治水事業に着手、学校を建て地元の人材育成、発展に尽力。100年の魂、錦堂の精神と謳われ、故郷に錦を飾った慈善事業家である。f:id:ekobiiki888:20210207141629j:plain

地元から戻り、その二年後には干ばつに苦しむ神出地区に私費を投入、溜池を築造し治水整備に着手、開拓事業で60haもの農地を造り農民を入植させ一集落を作り上げた。莫大な費用、無償の住宅まで提供し村の発展に貢献、その功績は観光名所になり今に伝えられている。f:id:ekobiiki888:20210207141937j:plain寧波から神戸の道のり 呉錦堂の年表を紐解いてみよう。1855年11月14日浙江省の慈溪県東山頭の農家に生まれ幼き頃から家業を手伝う、読書好きな青年は荒波の向こうへ見果てぬ可能性に思いを馳せ、寧波で豆腐屋、上海ではロウソク屋で働き小金を貯め30歳で長崎に渡る。のち大阪で義生栄号を起業しマッチ販売を開始、35歳で神戸に移り貿易・海運会社「怡生号」を創設・・足跡は次回以降に追記していきます・・

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明石藩舞子台場跡(舞子砲台)開国を求める欧米列強の相次ぐ来航によって江戸幕府は海防強化を図ろうと勝海舟の指導の元で築造された。1865年着工  アヘン戦争南京条約、中国の半植民地化を目の辺りにしての危機感が伝わる。運良く一回も使用されず。神戸市垂水区の舞子公園の西 明石海峡大橋の袂に位置する f:id:ekobiiki888:20210207191437j:plain

大橋の逆の袂・・・f:id:ekobiiki888:20210207214150j:plain

移情閣 舞子海岸にあった呉錦堂の別荘・松海別荘のなかに来客用として建てられた八角形の中国式楼閣。1915年(大正4年)着工 その年は日本が対華21カ条要求を突きつけ大陸進出に拍車がかかる激動の幕開け、そして呉錦堂が60歳の還暦を迎えたf:id:ekobiiki888:20210207220753j:plain 

移情閣に接続する洋館は更に古くに建築された。明治29年舞子駅山陽鉄道垂水駅 - 明石駅間に舞子公園仮停車場として開業)以前に建てられていたとされる。保養所として明治天皇がこよなく愛した舞子公園は明治政府が先進諸国に追いつくため国策として初の県立都市公園として誕生しました。f:id:ekobiiki888:20210208074436j:plain

なぜ、呉錦堂は日本国籍帰化する前にこの一帯の土地を購入できたのか?経緯はわからないが、彼はこの美しき土地に惹かれ・・海を見ながら故郷の長江流域に思いをはせていたのかもしれないf:id:ekobiiki888:20210208205315j:plain多くの文化人と交流した八角楼の額には錚々たるに人々の足跡が残るf:id:ekobiiki888:20210208211151j:plain移情閣の窓から 季節と心の移り変わりが見えた f:id:ekobiiki888:20210207215933j:plain上海へ繋がるみち・・舞子の浜で孫文を支えた華僑がいた・・f:id:ekobiiki888:20210208213704j:plain

・・物語がはじまります。

 ※資料参考 孫中山記念会、神戸華僑歴史博物館 孫文記念館、展示の写真は孫文記念館のものです。

神戸物語

地元のスター・ターザンさんと人気キャラクター・いたやどかりちゃんがお出迎え!!活気溢れる神戸市須磨区 板宿(いたやど)本通り商店街 へ来ました。f:id:ekobiiki888:20210130181346j:plain 神戸市営地下鉄山陽電車が乗り入れする板宿駅 通勤便利な繁華街です。板宿の由来は大宰府に左遷される菅原道真のため里人が板囲いの宿を建ててもてなしたので板宿の地名がついた(須磨観光協会参考)昔からおもてなしの心が溢れる地域なのですね。f:id:ekobiiki888:20210201105756j:plain商店街入口にある山陽そば テレビで紹介されるほど有名な立食い店 多様なメニュー、ボリューム、味も満点だそう、次回は人気のかすうどん食べてみよう!f:id:ekobiiki888:20210131231753j:plain商店街ソング大ブレーク中『いた、やど、いたやどかりちゃん いた、やど、いたやどかりちゃん S hotenga ~~  i ♪♪』~愛と情熱で焼き上げるパンってどんなん? 定休日だった残念・・・f:id:ekobiiki888:20210131223330j:plainイカラ志向の神戸っ子に絶大なる支持をうける神戸珈琲物語・・『伝統ある本物のコーヒーには ひとつの物語がある』・・紀州備長炭で焙煎された炭火焼き珈琲は格別に美味しい! f:id:ekobiiki888:20210130214649j:plain神戸気質(Gokoro) その珈琲物語が創ったコーヒーに合う生クリーム食パン、そのまま焼かずに生食するのが最高!これだけの品質で一本750円 一斤390円!神戸の良心ですね!f:id:ekobiiki888:20210131000316j:plainとにかく炭火焼き珈琲にはぴったりです。食パンの消費量日本一、パン全体では京都に次ぐ多さ、正しくパン好きの聖地ですね!f:id:ekobiiki888:20210130235118j:plain日本にパン文化が根付いた最初の都市は開港神戸と言われています。お馴染みドンク - DONQ -、西の名店・フロイン堂など名店が多く鎬を削って・・どのパンにしょうかなぁ悩んじゃいますよね~ すまぼう君どうしたらいい?f:id:ekobiiki888:20210201004614j:plain

すまぼう~須磨の海に住むうみぼうず、須磨区の良さを知ってもらうために頑張るぼぅ! ・・神戸のパン全部食べたらいいって!!

 

 ・・神戸物語・Bund of kobe・・f:id:ekobiiki888:20210131035409j:plain辛亥革命と華僑 海外華僑が一団となって世界中に大きな支援の輪が広がり、神戸はその重要な舞台となった。f:id:ekobiiki888:20210201144410j:plain神戸と中国 革命指導者の孫文は『華僑は革命の母』と述べたように神戸華僑も思想、資金 組織面で孫文を支援、そのひとり呉錦堂は寧波幇、広くは浙江・江蘇・安徽など長江中流地域の三江幇の一員として神戸華僑史に絶大なる功績を残しました。f:id:ekobiiki888:20210201151334j:plain神戸から上海へ  f:id:ekobiiki888:20210201153336j:plain

・・・中国へと繋ぐ 歴史散策を・・・

 

見果てぬ夢  日本の原人ここにあり

果てしない夢は限りなく未知である・・各駅停車が停まる無人f:id:ekobiiki888:20210121232518j:plain山陽電気鉄道本線中八木駅(なかやぎえき)兵庫県明石市大久保町八木道沿いf:id:ekobiiki888:20210121233800j:plain日本の旧石器時代の足跡、文明の始まり 日本考古学及び人類学にとって世紀の大発見だった可能性を捨てきれない場所であるf:id:ekobiiki888:20210122155431j:plainのどかで平坦な農地が広がる 瀬戸内の温暖な気候、豊かな実りに恵まれていたf:id:ekobiiki888:20210122161041j:plain東播磨灘に面した豊かな漁場 向こうに淡路島が見える。f:id:ekobiiki888:20210122164745j:plain自然に恵まれた海岸線は絶滅が危惧されるアカウミガメの産卵地として保全活動、生態の調査が行われている。f:id:ekobiiki888:20210122174548j:plain八木遺跡公園 化石発見の地 明石原人やアカシゾウのいた古代をイメージした公園として2004年開園。また阪神・淡路大震災の教訓を生かすべき備蓄倉庫・飲料水兼用耐震性貯水槽が設備され市民を守る防災公園としての役割を担っている。f:id:ekobiiki888:20210122214508j:plainアカシゾウ発掘地 約120~180万年前に西日本から関東地方に渡る広範囲で生息していた長い牙が特徴の小型の象 アジア、アフリカゾウとは異なり絶滅した種 各地方の地層から比較的多く発見される。また明石海峡で漁船の網で引き揚げられることもあり多くの群れが存在していたと想像されます。f:id:ekobiiki888:20210123011337j:plain屏風ケ浦という名は海食壁が連なりあっていたことから、屏風ケ浦海岸には象や鹿の化石 石器などを含む遺物包含層が存在し地質学 古生物学でも大変有意義な場所であった。だが古代への道標の断崖、地層は護岸工事のため今は殆ど見られない。f:id:ekobiiki888:20210123013555j:plain

明石原人発見者の直良 信夫氏は波乱に満ちた生涯をおくった考古学者。療養を兼ね明石に住み一帯の発掘調査していた。1927年(昭和2年)礫層中から自然界としては不自然の瑪瑙の一塊を発見。のち旧象の白歯化石などを採集、この地に旧石器の人類の存在を感じ予見していた。(下右端柵の中は古人の腰骨が発見された発掘現場である)f:id:ekobiiki888:20210123024256j:plain明石原人腰骨発見地 1931年(昭和6年)4月18日、明石市西八木海岸の更新世の地層の崩壊土の中から古い人骨の一部・右寛骨を発掘した。当時はセンセーショナルな発見とし大阪朝日新聞で「3,40萬年前の人體の骨盤現る」と報ぜられるf:id:ekobiiki888:20210123231458j:plain

直良信夫は貧しい農村で育ち、自然にふれる中で生物学に興味を持つ、動植物の生態、考古学を独学で学ぶ 彼の発見した明石原人化石人骨は年代を含め何度も議論の対象になった。発見という功績もろとも不定されることもあった。肝心の現物は東京大空襲により消失 戦争と学閥争い 数々の苦難に翻弄されながらも在野の研究者として道を歩んだ・・松本清張の小説「石の骨」のモデルになった人物であるf:id:ekobiiki888:20210123160728j:plain

学歴がものをいう、彼のレポートや論文の一部は軽んじられた。閉鎖的な学会、しいては日本社会そのものが浮き彫りになる。そして今も明石原人に関わる論争は決着はついてはいない・・そのヒントはどこにあるのだろう。

f:id:ekobiiki888:20210124015538j:plain 藤江川添遺跡 中八木駅の隣の藤江にある小さな川の周辺には近年 旧石器・縄文時代の遺物が見つかっている(左には古墳遺跡の名残 右丘からは縄文時代の出土が)f:id:ekobiiki888:20210124132634j:plain藤江別所遺跡 藤江ポンプ場の中にあります。弥生時代後期の溝と同時代から江戸時代初めまで長期間にわたって使用されていた水の湧き出る井戸(泉)が見つかりました。その井戸から古墳代の車輪石、腕輪・銅鏡、さらに勾玉などが出土 当地を治めていた首長が祭祀を行った井戸跡と思われる。f:id:ekobiiki888:20210124141910j:plain鉄分を含む赤茶の水を清め祭祀を行っていた神森 平安時代は格式ある神社のひとつ山王権現・現名は御崎神社 明石市指定文化財に認定されている民俗芸能、矢で悪霊を撃ち落とす藤江山王大権現的射祭が1月10日前後の日曜日に行われている。f:id:ekobiiki888:20210124154959j:plain

藤江出ノ上遺跡 藤江川の西側の小高い丘の上にある青龍神社境内に位置します。縄文時代の土器が出土 石鏃・磨石(すりいし)・叩き石等が発見され、これにより縄文時代には藤江川流域でひろく狩猟・採集生活が営まれていたことがわかってきました。f:id:ekobiiki888:20210124165344j:plain採集地は表土が流失し、現在遺物は全く採集されなくなりました。f:id:ekobiiki888:20210124172400j:plain藤江川添遺跡 海岸近く播磨灘に注ぐ藤江川の河口から遡った低地に縄文土器を含む地層よりも下に堆積した砂礫層からメノウ製の旧石器が見つかっている 形態的には世界各地の原人が用いていたとされるハンドアックス(握り斧)に最も似ているそうです。しかし明石原人がいつの時代の人類なのか、いまもって解明されてはいない。f:id:ekobiiki888:20210124180300j:plain

明石原人発掘の場所・美しき西八木海岸から明石海峡大橋がみえた・・

見果てぬ夢 日本の原人ここあり・・