華僑史に燦然と輝く巨人・その名は呉錦堂 裸一貫で身を起こし立身出世した男の中の男 明治天皇から勲六等瑞宝章・紺綬褒章受章をうけた華僑最大の豪商である。その彼を一躍有名にした近世名勝負物語・黄金街の覇者(昭和29年の東宝映画 原作・村松梢風)鐘紡株を狙い相場師・鈴木久五郎に挑む関西黒幕の中国人 ・・その人物である・・ 彼はただの勝負師や商人ではない・・大規模な水害に見舞われていた故郷・浙江省寧波県慈溪県の惨状に心痛め、帰郷し治水事業に着手、学校を建て地元の人材育成、発展に尽力。100年の魂、錦堂の精神と謳われ、故郷に錦を飾った慈善事業家である。
地元から戻り、その二年後には干ばつに苦しむ神出地区に私費を投入、溜池を築造し治水整備に着手、開拓事業で60haもの農地を造り農民を入植させ一集落を作り上げた。莫大な費用、無償の住宅まで提供し村の発展に貢献、その功績は観光名所になり今に伝えられている。寧波から神戸の道のり 呉錦堂の年表を紐解いてみよう。1855年11月14日浙江省の慈溪県東山頭の農家に生まれ幼き頃から家業を手伝う、読書好きな青年は荒波の向こうへ見果てぬ可能性に思いを馳せ、寧波で豆腐屋、上海ではロウソク屋で働き小金を貯め30歳で長崎に渡る。のち大阪で義生栄号を起業しマッチ販売を開始、35歳で神戸に移り貿易・海運会社「怡生号」を創設・・足跡は次回以降に追記していきます・・
明石藩舞子台場跡(舞子砲台)開国を求める欧米列強の相次ぐ来航によって江戸幕府は海防強化を図ろうと勝海舟の指導の元で築造された。1865年着工 アヘン戦争、南京条約、中国の半植民地化を目の辺りにしての危機感が伝わる。運良く一回も使用されず。神戸市垂水区の舞子公園の西 明石海峡大橋の袂に位置する
大橋の逆の袂・・・
移情閣 舞子海岸にあった呉錦堂の別荘・松海別荘のなかに来客用として建てられた八角形の中国式楼閣。1915年(大正4年)着工 その年は日本が対華21カ条要求を突きつけ大陸進出に拍車がかかる激動の幕開け、そして呉錦堂が60歳の還暦を迎えた
移情閣に接続する洋館は更に古くに建築された。明治29年舞子駅( 山陽鉄道の垂水駅 - 明石駅間に舞子公園仮停車場として開業)以前に建てられていたとされる。保養所として明治天皇がこよなく愛した舞子公園は明治政府が先進諸国に追いつくため国策として初の県立都市公園として誕生しました。
なぜ、呉錦堂は日本国籍に帰化する前にこの一帯の土地を購入できたのか?経緯はわからないが、彼はこの美しき土地に惹かれ・・海を見ながら故郷の長江流域に思いをはせていたのかもしれない多くの文化人と交流した八角楼の額には錚々たるに人々の足跡が残る移情閣の窓から 季節と心の移り変わりが見えた 上海へ繋がるみち・・舞子の浜で孫文を支えた華僑がいた・・
・・物語がはじまります。